第三章 人とは違う変人の「オーラ」が出ていると言われた高一時代 101〜126

高校一年(平成十五年〜平成十六年)充実した高校生活が始まる。

大阪府立高校普通科 各学区トップ校と、理数科の入学難易度比較。

大阪府立高校各学区普通科トップ校の、合格者平均偏差値は、北野や茨木が約66、天王寺や三国丘が65、四條畷や生野が64、大手前や高津が63、岸和田が62 というのが、03年度の五ツ木模試での相場でしたが、天王寺高校理数科は71、大手前高校理数科は70でした。
これは大阪教育大附属池田・平野・天王寺校舎という、国立大附属高校の71〜70と同ランク。つまり大阪の中高一貫私立高校以外の、国公立高校のランクで云えば、大手前理数科は、北野や茨木よりも偏差値ランクは上になっていました。倍率で見るとよく分かるように、普通科トップ高校の倍率は高くても1.3倍前後ですが、理数科は約3.7〜4.2倍と、かなり倍率的にも難しいと言えます。
中学時代の内申点が、190点満点で180点前後なければ、合格はなかなか難しいと云われる所以です。内申点を180点近く取ろうと思えば、主教科はほとんどオール10が当たり前で、副教科も9以上が必要です。息子のように副教科が7や6というような生徒では、当日入試点をかなりとれる実力がなければ、受験させてもらえないのは当然でしょう。現に息子の場合も、担任の教師からは、ちょっと難しいのでは? と、難色を示されましたし、合格も疑問視されていました。
しかし現実には、英語や国語での差はあまりつかず、当日試験の数学は制限時間が少ない割にかなり難しいので、点を落とす生徒がかなりいて、数学の出来如何が合否を分けたようでした。理数科と言いながら、どうして入試が英語・数学・国語の三教科で、理科が入試にないのか疑問ですが、理科を試験で課さない代わりに、内申点の理科の配点は(×3)にすることで配慮しています。入試に理科があれば、多分息子も合格できなかったかもしれません。

理数科の秀才と雖も、ピンからキリまでいる。

一口に難しい理数科と言っても、80人も合格者がいるので、当然成績も1番から80番までいる訳です。高校で更に学力を伸ばす生徒がいる一方、「受験燃え尽き症候群」に陥り、徐々に失速していく生徒も出てきます。トップクラスの生徒は、入学時から卒業時まで、ほとんど順位を落とすことなく、三年間トップクラスの学力を維持し続けるところは、やはり立派の一言に尽きます。
「勉強するのは当然!」という姿勢が備わっている点が、学生の鑑と言えます。学校側も生徒に勉強させるべく、毎日のように宿題を課してきますが、それに対し要領よくこなしていかないと、授業にはなかなかついていけません。そういう生活を三年間みっちりやってきたのだから、やはり受験に強くなるのは当然です。大半の生徒は入学した時点で、クラブ活動の方に生活の軸足を置き換えていくようですが、要所要所での勉強を決して怠らないところが、理数科トップクラス生徒達の優れた資質と言えます。三年間勉学への気持ちを切らさない点が素晴らしいと言えます。

公立最難関 大阪府立天王寺高校理数科と、大手前高校理数科。

中学時代の内申点の高さという貯金で、入試点の悪さをカバーし、ギリギリ合格するという生徒が多いのが、大手前理数科の特徴で、一方内申点も入試点もかなりよくないと合格できないのが、天王寺高校理数科の特徴と言えましょう。大手前理数科には、大半の生徒が大阪の旧第三、第四、第五学区から入学してきます。その点、天王寺理数科の方は、主に第五、第六、第七、第八学区から生徒がやって来るので、より幅広い学区から優秀な生徒が集まって来ると言えるかもしれません。
大手前理数科には、京阪電鉄沿線からやってくる生徒が多く、枚方市、寝屋川市、交野市、門真市、守口市などに住む生徒が、京阪電車を使って天満橋まで乗り継ぎ、大手前はそこから歩いて数分の立地にあるので、云わば京阪沿線御用達の名門高校と言えるかもしれません。
そうして合格した80人の理数科生徒でも、合格後に更に伸びる生徒と、完全に伸びきってしまい、やる気を無くしていく生徒に分かれて行きます。80人の内トップ20人位は、入学後から三年間ほとんど学力を維持し続けると言えます。真ん中から下位クラスの生徒は、クラブ活動などに力を入れ、高校生活をエンジョイすることが中心となる為、学業の方は二の次三の次という生徒達が多くなるように思います。

理数科トップクラスの生徒は、国公立大医学部医学科や、京大・阪大などへと現役で進学していく者が過半数近くおり、多少の上下はあっても、トップクラス20人の順位は、高校三年間ほとんど変わることがありません。10%〜
15%の生徒は理系から文系へと転向していきますが、85%~90%の生徒は、男子であれれ女子であれ、理系の大学・学部を目指しそのまま突き進んで行きます。
大手前高校理数科と云えば、勉強ばかりでクラブ活動などほとんどやらず、勉強オンリーというイメージがありそうに思えますが、全く逆にクラブに属しない生徒の方が少ない位で、体育会系や文化系を問わず、積極的にクラブ活動をし、勉強と両立させる生徒が多いのです。
中には一人で三つのクラブを掛け持ちし、京大へ現役合格するような生徒もいます。どの教科の勉強も、クラブ活動も、学校行事も、兎に角一生懸命に取り組む、模範的優等生タイプの生徒が圧倒的に多いのです。それに「理数科」という位ですから、数学や理科が得意な生徒ばかりというイメージがありますが、英語も得意、国語もかなりできる、社会も意外に興味を持っているという生徒が多いのも事実です。英語に関しては、かなり得意な生徒が圧倒的に多いようです。
国語も社会も、全教科で毎回学年トップの点を取るのは、普通科の生徒ではなく、理数科の生徒です。理数科と言っても、全教科万遍なくできる生徒が入ってくるのです。だから逆に、数学はそれ程得意ではないが、それ以外の教科でカバーして合格してくる生徒もかなりいる訳です。そういう生徒は、入学後にかなり苦労するようです。理数科という以上、数学をメインに授業が進んでいくので、数学が相当できないと、授業に付いていくのはかなり難しいのです。
 国語や社会がそれ程できなくても、数学だけは兎に角できなければ、理数科で付いていくのは苦しくなります。宿題責めで付いて来れない生徒も多いですが、家に帰ってから宿題をやっているようでは心許なく、息子のように学校の休み時間に、ササッと宿題を済ませるような「要領の良さ」がないと、毎日課せられる宿題責めの前に、潰されてしまうかもしれません。

優秀なクラスメートに恵まれ、様々な刺激を受ける。

理数科トップクラス、20人の生徒達の平均偏差値は73位でしょうか? 中には77近い生徒もいます。 一クラス40人中、大阪市内出身者17人、府内出身者23人というのが例年の構成比。中学時代の五ツ木模試で、400位以内の「成績優秀者ランキング」に入った生徒は、クラスの70%近くもいて、大阪府内三つの学区で、中学時代はトップクラスの優等生だった生徒が多いようです。
息子の高一時代のクラスも、半数近くが「京大・阪大・国公立大医学部医学科」に進学した優秀なクラスでした。理数科二クラス80人中でも、現役で私立大へ進学したのは僅か数名程で、後は浪人してでも国立大(京大・阪大)へという生徒が大半なのです。京大志望者でも、前期・後期課程とも京大一本で、滑り止めの私大など一切受験しないという一本槍の生徒が多いのも特徴です。
全教科バランスよく真面目に勉強してきた優等生タイプで、副教科さえも手を抜かず、抜群の成績だったのです。息子のように副教科が7や6だった「劣等生タイプ」は理数科では少数派と言えます。かと言っ

大手前高校1 年時の成績-1
大手前高校1 年時の成績-1

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て「ガリ勉タイプ」かと言えば決してそうではなく、学校行事でも生徒会でも運動でも、何事に対しても、積極的に自ら進んでやるタイプが多いのです。

或る教師曰く、理数科第十一期生は、「過去最優秀」かもしれない。

一年時の前期中間考査(十一教科合計)が千百点満点で、最高点をとった生徒は千一点で、クラスメートの三人が、それぞれ三教科で学年トップで、二人が一教科で学年トップと、一クラスの五人の生徒が全十一教科の最高点を独占しました。その三人は高校卒業後、皆現役で、阪大医学部医学科、京大理学部、大阪府立大獣医学科へと、現役で進学しました。残り二名も、京大理学部と京大工学部電気・電子学科へと進学。その他にも、大阪市大医学部医学科、滋賀医大医学科、京大工学部物理工学科二名、京大経済学部と、みな難易度の高い錚々たる大学へ現役で進学しました。
中高一貫の名門私学でもなく、所謂「ゆとり教育」の弊害で、勉強時間の少ないハンデの中で努力してきた、大阪府内の普通の公立中学から進学してきた生徒達ばかりなのです。
七月に行われた「進研全国模試」の英数国三教科で、全国約42万人中105位だった女生徒が、息子のクラスの後ろの席にいました。この女生徒は中学時代の、第六回五ツ木模試で二位になった才媛で、後に京大理学部へ現役で進学しました。(その時の五ツ木模試でトップだった女生徒は、京都の国立教育大附属高校へ進学し、京大医学部医学科へと現役進学しました。息子は三教科300点中221点で大手前全体では29位、
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第三章 人とは違う変人の「オーラ」が出ていると言われた高一時代
全国では三千八百九位と成績はイマイチでした。成績ではまだまだ、理数科のトップクラスと言うには程遠い、二番手三番手クラスに過ぎなかったのです。

高一〜高二にかけて、最大十六人のメンバーで成績公開をする。

高校入学後最初の頃は、クラスの仲間達が一体どんな成績なのか全く分からなかったから、中学時代の内申点はどの位だったか? とか、滑り止め私学はどの高校を受験したか? などと、いろいろ探りを入れていました。さすがに大阪星光学院や、京都の洛南、奈良の西大和学園、清風学園理三、明星学園、等が多かったようです。息子のように、大阪桐蔭一類を受けた者は少数派で、仲間達には、ちょっとバカにされていました。おまけに中学時代の内申点は、仲間内では最低点だったから、かなり笑い者にされていたようです。「そんな点で、よく大手前理数科を受けさせてもらえたなぁ!」190点満点の内申点で、180点以上は当たり前のように取っていた生徒ばかりだったから、息子のように158点など、全く話にならないレベルだった訳です。
そして最初の前期中間考査が始まりましたが、誰が発案したか、仲間八人が集まり、お互いの試験結果を、教室の後ろの黒板に書いて「成績公開」しようという話になったみたいです。超トップクラスの生徒はさすがに敬遠しましたが、別に成績を公開することなど、何でもないという強者が、面白がるように競って、自らの点数を黒板に公開したのです。

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考査結果が返却されて得点が判明する度に、名前と教科の欄に自分の点を書き込んでいったのです。総合点の高いものから順番に並べ、お互いの健闘を称えあったり、貶して笑い合ったりしたようです。クラスの仲間達に対する「受け狙い」もあり、結構面白がっていたようです。
授業で教師に消されても、休み時間には、性懲りもなくまた書き直す...という繰り返し。或る教師も驚いて、「教師生活も長いが、こんな生徒達を見たのは初めてだ!」と呆れていたらしい。その八人のメンバーも、やがて加入と脱退を繰り返しつつ、最後には総数で十二人位に膨れ上がったが、その成績公開に加わったメンバーの内、上位六人はその後京大(工学部物理工学科二名、電気電子学科、理学部、農学部、経済学部)へと現役進学し、一人は大阪市大医学部医学科へ、真ん中以下のグループでも、阪大や神戸大へ進学した者が多く、浪人した者はごく僅かだった。成績公開時は、上位陣はさすがにそこそこ良い点だったが、下位陣は、理数科生徒にしてはちょっとお粗末な点をとっていたことから、高三最後の追い込みで、かなり本来の実力を発揮したと言えます。
ある時、普通科の女子生徒がその成績公開の黒板を見ながら、「理数科の生徒って、成績の優秀な人ばかりかと思っていたけど...そうでもない生徒もかなりいるのね...」と、ちょっと呆れたような感想を漏らしていたと言います。それほど必死になって、点をとろうとはしなかったメンバーも半分近くいたということです。確かに良くできる生徒と悪い生徒の差はかなりありました。
定期考査や、アチーブと言われる休暇明けの宿題考査、校内模試などの結果も、競うように公開し、徐々に参加する生徒を増やしていき、クラス替えになった高二の前期中間考査後の時点では、クラスを跨いで、総勢で十六人にまで膨らんでいました。なんと理数科男子生徒の三分の一が成績公開に参加したことになります。(息子は平均点や総合点を瞬時に計算する役割のようでした。)
頭の善し悪しというより、あまり必死になって点をとろうとしない生徒が多かったのも事実です。成績が悪かった生徒でも、中学時代は学年トップや二位だった者や、滑り止めに洛南高校、西大和学園、大阪星光学院と、錚々たる学校全てに合格し、全て蹴って理数科に入学した生徒もいます。その生徒は、中学一年の時が成績のピークだったらしく、駿台の全国中学模試では、大阪府で一位、全国では二位だったこともあったといいます。中学三年になってかなり学力が落ちてきても、件の三つの進学高校全てに受かった「某進学塾・ハイクラス生」でした。中学時代に散々勉強をしてきたから、高校では兎に角クラブ活動を楽しみ、「勉強はしない!」と決めていたのかもしれません。
中学三年時に、年八回開催された五ツ木模試で、何度もランキングに掲載された生徒が多く、内申点も大概184点前後だった生徒達です。各公立中学ではトップクラスだった生徒ばかりだから、本気で勉強すればやれるが、高校二年の秋位までは、暫くは勉強は必死にやりたくない...こんなひどい成績など、中学時代はとったことがない...という点を敢えて取り、それをみんなに公開し、晒し出して、或る意味での「憂さ晴らし」をしていたのかもしれません。「人間の価値は、試験の成績なんかじゃないんだぜ!」ということを、敢えて言いたかったのかもしれません。
中学時代からの延長で、相変わらずきちんと勉強をし続け、それなりの結果を出し続ける生徒もいれば、徐々に勉強に身が入らない生徒達もいて、回を増やす毎にその差は大きく開きました。

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成績公開メンバーの成績順位の変遷。

成績の良いグループを一部、悪いグループを二部と、Jリーグを真似て二つに分け、入れ替え制にしようという案がメンバーから持ち上がりました。しかし一部リーグの下位二人と、二部リーグの上位二人を入れ替えても、次回の考査結果を見れば、一部リーグの下位は二部リーグからの昇格組二人であり、二部リーグの上位二人は一部リーグの下位から降格した二人になるだけと思われ、結局この提案は却下されたようです。成績順位に、毎回大きな変動はほとんどなかった訳です。
成績を堂々と公開している訳だから、答案返却後の「答え合わせ」では、机上に広げた自分の答案の点数部分を折り曲げて隠す必要はなく、良くも悪くも、俺の点はこんなものだ! と開き直っていられたのです。まだ「成績結果などあまり眼中にない」生徒が多かったようです。クラブ活動に力を入れていたので、勉強の方は、それ程一生懸命にやっていなかった生徒が多かったのです。
中学時代に必死で勉強をしてきたから、高一から高二にかけては、もっとクラブ活動を中心にして、勉強は程々に抑えていたのでしょう。さすがに女子生徒で成績公開に参加する「勇気ある生徒」がいなかったのは、ちょっと残念に思います。(この成績公開については、後々伝説となっているようです。大手前理数科十一期生の一部生徒は、ちょっと特異な集団だったのかもしれません。)

夏期「天王寺理数科との合同 サマースクール」で阪大教授に学ぶ。

天王寺高校理数科の生徒80人と合同で、平成十五年八月に、阪大の理学部と基礎工学部の教授による講演と、施設見学会がありました。午前中は豊中キャンパスの理学部教室で、数学と自然科学の講義を受け、午後から阪大基礎工学部の研究施設の見学を行い、研究中の大学生や大学院生の話を聞くというもので、大学教授の生の声が聴け、生徒達には有意義な見学会だったようです。
このサマースクールで学んだことは多かったと思いますが、息子からあまり感動したという感想は聞きませんでした。このサマースクールで講義を受けた阪大教授は、息子曰く「小学校の教師みたいに、細かいことに口うるさかった!」「阪大は校舎が汚い上、食堂での昼食も不味かった!」という数多の理由で、息子にとって阪大は「行きたい大学」にはならなかったようです。
私の時代より今の方が、阪大理学部の難易度が落ちているのも気に入らないようでした。「入りやすくなっていいだろう!」と私が言っても、「人気が落ち目の学部には行きたくない!」という考え方をする息子でした。私は「逃げの考え方」をしがちでしたが、息子はその点で積極的というか、あくまでも強気一辺倒の生き方に徹していた点で、親子と雖も全く違うタイプだなと感じました。

中学時代学年トップだった普通科生徒も、理数科では「大したことない」存在。

息子と級友が廊下を歩いていた高一のある時、落ちていた紙を何気なく拾って見たら、普通科女子生徒の成績表だったらしく、名前を確認すると、なんと息子の中学時代学年トップ常連だった女子生徒の成績表だった。全教科平均が80点位だったから、その当時の息子の成績より少し良かったが、「こいつ、中学時代トップだった奴だ!」という話をその級友に話すと、「平均がたったの80点か? なんや大したことないやん!」でした。平均80点あれば、学年20番前後でした。
その女子生徒も中学時代は学年トップだったというプライドがあったからでしょう、高校入試では、天王寺高校理数科を受験し不合格になり、滑り止めに私立女子校の名門、四天王寺学園に受かっていたから、その高校に行くだろうと思っていたら、府立の後期試験で大手前普通科を受けて合格し、普通科に在籍していたのです。「私は天王寺理数科を受けるから、あなたは大手前理数科にしたら!」と、その女生徒に言われたことに、当時息子はかなり腹を立てていました。
その時は既に理数科と普通科に分かれていましたから、その女子生徒は、最早息子の「ライバル」ではなかったのですが、嘗ては成績の上では「目の上のたんこぶ」的存在だったので、今は昔という思いで、息子も感慨無量だったのではないかと思います。
女子生徒は中学時代に成績のピークを迎えるタイプが結構多いような気がします。内申点の高さで理数科には受かったが、数学で躓いてしまい、付いて行けずに苦労するタイプが結構多いようです。 理数科に合格して在籍してはいても、高三で文系に転向する生徒が、毎年一割前後もいます。息子のように社会系教科に全く興味がない生徒なら、文系転向などまず考えられないことですが、理数科と雖も、社会系教科に強い生徒は結構多いので、文系転向も充分可能なのかもしれません。
高三になるまでは理系一筋だったが、高三から急遽文系に転向し、最終的に京大法学部や経済学部に合格した理数科の生徒もいます。しかし06年度受験の大手前普通科生徒に関しては、京大の文系学部は、受験者全員不合格だったらしく、京大文系学部の壁はやっぱり厚かった訳です。

Z会高一 七月実力テスト結果。

03年七月実施の第一回Z会実力テストでは、300点中261点(英数国)偏差値63.7(約七千四百人中)
480位、京大理学部合格可能性はBランク。04年一月実施の第二回Z会実力テストでは、300点中264点(英数国)偏差値64.7(約六千三百人中)259位、京大理学部格可能性は、ギリギリAランクでした。
私の時代は、Z会の問題は難問揃いという印象でしたが、息子に言わせると、Z会の実力テストの問題は、それほど難易度は高くないので、良かろうが悪かろうが、結果はあまり参考にはならないようでした。「良かった悪かったと、あまり一喜一憂する必要はない!」と言っていました。

数学オリンピック大会出場を目指したが。

高校での息子は、体育会系クラブには属さず、数学だけが好きだったこともあり、「数研倶楽部」に属しました。一時は「数学オリンピック」に出てみようと真剣に考えたようですが、出て散々な結果に終わ
ると「格好悪い」と思ったのか、高校一年ではひとまず見送りました。しかし高校二年では、最後のチャン
スになるから「絶対受ける!」と息巻いていましたが、結局一緒に受けると言ってくれた級友がドタキャン
した為、一人では受ける勇気もなく、受けず終いになりました。
結果がどうであれ、そういう大きな大会に挑戦しようという、若者らしい覇気を応援したかったのですが、
いくら説得しても受けないと言う意志を曲げませんでした。丁度高校二年の一月頃に実施されるため、重
要な模擬試験と重なるという事情もあったからかもしれません。一回の模擬試験よりも重要な経験ができ
るとアドバイスしましたが、やはり息子には勇気がなかったのだと思います。数学に対してのプライドがそこ
そこあったが故に、もしも無惨な結果に終わったら、自分の存在価値がなくなってしまうのでは... という不
安には勝てなかったのかも知れません。
高校の文化祭での、数研倶楽部恒例の催し物が「百升計算」で、高一の時は足し算と引き算で息子は
一位。高二の時はかけ算と割り算で一位。小学校・中学校時代に、算盤と暗算を鍛えた成果が出たと
言えます。中学三年間算盤塾に行った生徒は少ないと思いますから。
百升計算二ケタ編のタイム:

一位 息子一分05秒、

二位 理数科男子生徒一分59秒、

三位一年数研部員、

四位 二分38秒、

五位 理数科女子生徒二分39秒(後に京大理学部現役進学)

顧問の先生(京大理学部出身)は、三分以上かかった。

※二人がかりでやっても、息子には敵わなかったようです。運動系では目立つことは決してなかったが、こういう場ではさり気なく自己主張していたようです。

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挿入図・表・目次
第三章 高一 大手前高校一年時の成績 106
第三章 高一 成績公開メンバー達の成績推移 110
第三章 高一 Z会 高校一年時受講教科と成績(三月〜七月) 114
第三章 高一 Z会 高校一年時受講教科と成績(八月〜十二月) 115
第三章 高一 Z会 高校一年時受講教科と成績(一月〜二月)実力テスト結果 116
第三章 高一 大阪府立大手前高校 理数科 一年度 成績概要 117
第三章 高一 IQ測定TV番組の結果(03年十一月) 123
第三章 高一 (東大・京大・阪大・神大)理学部、一次&二次配点データ 124

次へ⇒能ない鳶は能ある鷹をうめるかP127~P156 第四章

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