そんな私が息子を如何に教育してきたか。

そういう空中分解したような青春を送ってきた私ですが、子供が成長し受験を迎える頃になると、自分の轍を踏まさないよう必死になりました。
黒子として子供の受験を成功させるべく、バックアップすることに執念を燃やすようになったのです。かといって、自分と同じように息子を塾や予備校に通わせるようなことはしませんでした。のびのびと人間的に成長できるような育て方をしたかったからです。昔の私のように、学校の勉強だけできたらいい...というような、考え方の狭い偏った欠陥人間にはしたくなかったのです。
家内曰く「頭の悪い自分達の子供だから、息子もきっと頭が良い訳がない」と思い込み、幼稚園に入る前頃から、かなりスパルタで息子には教育していたようです。そこでやる気を見せるか、やる気をなくすか見ていると、泣きながらでも「お母さん、教えて!」という熱心な息子だったから、必要以上に厳しく教え込んだようです。後年息子が語るには、あの頃お母さんに「叩かれながら勉強させられたのがとても辛かった!」と述懐していました。
運動神経がいい子供だったら、運動をさせてその能力を更に伸ばしてやるようなバックアップをしたと思いますが、息子を見ていると、ドッジボールで球を拾っても、自分で投げようとは決してしない子でした。球を拾っては運動神経のいい子にボールを手渡すような気弱な子供でした。この性格だと、運動で抜きんでるのは無理だろうなと、当時は思いました。かといって手先が器用で、図工が飛びきりできた訳でもなく、
絵を描けと言われているのに、数字ばかり描くような子でした。
私の小学校時代は、「体育と図工」だけが楽しみで生きていた人間でしたから、自分の子供が体育と図工嫌いになるとは正直思いませんでした。息子にとって、その二教科は苦手でしたが、その他の教科は大概良くでき、この子は「勉強で生きて行く」方が向いていると悟った訳です。
小学校時代の息子は、専ら漫画の単行本を何度も何度も、繰り返し繰り返し憶えるくらい読むような子でした。中でも「ラッキーマン」が好きだったようで、同じ本を、兎に角繰り返し何度も読んだものですから、ルビが振ってある漢字も自然と全て読めるようになったようです。
幼稚園の時の遠足に、「小学校六年間で習う漢字の本」なんかを好んで持っていき、読んだりしていましたし、「ドラえもんの算数」とかなんとかいう、「漫画で勉強ができるシリーズ」なんかを好んで結構読んでいたように思います。
小学校時代は、常に何かを読んでいたように記憶しています。だから昼寝をしたところなどほとんど見ませんでした。一年で一回あるかないかでした。小学三年の夏休みは、漫画で学ぶ世界史、日本史などの分厚い漫画本を買ってやり、夏休みが終わった時に「テストをする」とプレッシャーをかけて読ませたことがありましたが、さすがにあまり読まなかったように記憶しています。
日本史は特に何が何だか分からない...ようなことを言っていました。社会系はもともと苦手だったようです。確かに小学三年生には内容が、まだ難しかったと思います。
しかし小学四年くらいでは、「ピタゴラスの定理」の証明の仕方について教えてやると、何となく分かった
ようなことを言っていました。そして中学に入った頃に、「中学生でも分かる微分・積分」というような本を買って与えましたが、さすがに「難しくて分からない!」と言ってましたが。

私自身が子供の成長を通し、ずっと思ってきた六項目。

一 子供の高校・大学受験を、親としてできるだけバックアップし見守ってやる。
二 ゆとり教育で中身の薄い、公立の小・中・高校からでも、国立大学に受かる実例を示したい。
三 受験期の子の揺れる心・精神的葛藤を、経験者として精一杯理解してやりたい。
四 良い時も悪い時もできるだけ「本音で語る」ことで、子の成長の軌跡をしっかり追いたい。
五 子の教育に対する親としての熱い想いを、きちっとした本の形にまとめておきたい。
六 受験でも人生でも、不完全燃焼に終わった自分に対し、子供には「完全燃焼」させてやりたい。
というような事でした。

この六項目について更に説明しますと、

一 子供の高校・大学受験を、親としてできるだけバックアップし見守ってやる。
親にとって子供の受験問題は、今も昔も変わらず大きなウエイトを占めます。子供の教育に頭を悩ませない親なんてまずいません。みな試行錯誤しているのが現状でしょう。受験期の子供に親としてどう接するべきなのか? どこまで干渉してもいいのか? ある程度本人を信じて任せ、放任した方が良いのか? 両方のバランスをうまくとるべきか? 等々、この問題に対して興味を持っている世代は多いと思います。それらに対するひとつの指針を示したいのです。
子の試験の答案で間違った所がどこか、きちんと見ているか? 点数だけで一喜一憂していないか? 良かったからと言って調子に乗せず、少々悪かったとしても、きちんと分析して明日に繋げてやることが大事だと思っています。
挫折はしましたが私も受験を経験した者として、受験を初めて経験する我が子に如何に接し、適切なアドバイスができるかについて、真剣に考えてきました。決して理想的な父親だとは思いませんし、却って駄目な所が多い父親だと思っていますが、子供の問題を自分の問題と受け取り真剣に悩み、子供と向き合ってきたことだけは確かです。

二 ゆとり教育で中身の薄い、公立の小・中・高校からでも、国立大学を目指せる実例を示したい。
中高一貫の名門私学ではなく、公立の小・中・高校から、国立大学に合格した過程を詳細に検証することで、できるだけ無駄な教育費をかけずに、子供に勉強させるにはどうすればいいのか? について考えることができれば、 非常に興味をもってもらえるテーマになると思います。
教育に関しても「費用対効果」を考える必要があります。私自身もお金にはシビアでしたし、息子も経済感覚には結構敏感でしたので、必要最小限の経費で、最大限の効果を上げる「費用対効果」の高い方法を見つけて実践して行ったのです。

三 受験期の子供の揺れる心・精神的葛藤を、精一杯理解してやりたい。
子供が高校生にもなると、親と会話すること自体が鬱陶しいというか、極端に少なくなる傾向にあるのが普通と言えます。もっと親子の会話が必要ではないか? どこまで親が子の教育に首を突っ込んでいいものか? 子供の相談に乗ってやれる「受け容れ姿勢」が親の方にもにあるのか? 親と子の関係のあり方はどうすればいいのか?
付かず離れずの関係を保ちつつ、しっかりと子の気持ち・変化だけは把握しておくことが大切ではないでしょうか。子供が発する「心の叫び」を敏感に察知してやれないのなら、親の資格はないかもしれません。

四 良い時も悪い時もできるだけ「本音で語る」ことで、子の成長の軌跡をしっかり追いたい。
客観性と主観性のバランスを保つこと。子供を一人の人格と見なせるか? 客観的に見ることができるか? 良い所は良いと、悪い所は悪いとストレートに指摘して、お互いが話し合うことで、生の姿や現実を浮き彫りにしていくことが大切だと思っています。
親が子の問題について有耶無耶にしているようでは、子は親の言う事を信用しなくなります。親に意見を求めてきた時に、どれだけ的確な答えを返してやれるのかが問われます。

五 子の教育に対する親としての熱い想いを、きちっとした形で残しておきたい。
偉そうな事を言える立派な親では決してありませんが、子への熱い想いは負けない自負があります。懸命に生きていれば、私のような一庶民でも一冊の本が残せることを示したい...。
家庭や子供の教育の事などを、妻任せにしている「仕事人間」が多い日本にあって、私のような窓際族で、大して能力のない人間でも、必死に家族を思って今日を生きていることを、一冊の本にすることで示すことができたらと思いました。どんな想いも、それをきちんとした形に残しておかなければ、記憶はすぐに薄れていきます。単なる「想い出」にはしたくはなかったので、親と子の生き様を、何とか刻みつけておきたいという、熱い想いが湧き起こってきたのです。

六 受験も人生も、不完全燃焼に終わった自分と違い、子供には完全燃焼させてやりたい。
不完全燃焼で終わった自らの受験を、子に託して完全燃焼させたかった...という強い思いは確かにあります。温かく見守ってくれる者が背後にいるかいないかで、安心感が全然違うものだと思います。子供の能力を親としてどう伸ばしてやるか? 子供は一体何が得意なのか? 子供の最も輝く個性や能力を、いち早く伸ばしてやることが親の務めではないのか?
高校時代の私は、無気力・無関心・無感動な、芯のない人間でした。しかし結婚し子供ができてからは、自分の家族だけはしっかり守ってきました。仕事での輝かしい実績もあまりなく、ただ家族と幸せに生きるために懸命に働いてきたことは確かです。
しかし人間として何か打ち込めるものを見つけたかった。自分が完全燃焼できなかったので、子供には完全燃焼させてやりたかった。自分の教育方針が正しかったかどうかは分かりませんが、子供達の「こう生きたい」という意志を尊重して、父親として陰で支えてやれたのではないかと思います。子供も懸命に受験を乗り越えてきたように、親も懸命に子供を支えて来たのです。

子供には親としてどう向かい合うべきか。

親が「鳶」であれ、「鷹」であれ、その子が「鷹」の才能を示したら、親としてはその子に相応しい教育を施してやるのが義務であり、務めと言えます。子供にどういう教育が良いのかは、子供によって異なるので、一概には言えませんが、親子が会話を通して「活きの良いキャッチボール」をし合うことが大切だと思います。
子供の話をしっかりと受け止めて、的確に返してやることが何よりも大切です。分からない質問を受けた
ら、誤魔化さないでその場で辞書を調べる、百科事典を持ってきて一緒に調べるというような行為を通して、子供との信頼関係を築いていく。面倒臭いなどと決して思ってはいけません。子供はしっかりと親の反応を見ているもので、自分という存在が受け入れられているのかどうかを、敏感に察知しているものです。
子供は親が思う程幼くはなく、見る所はしっかり見ています。自分の子供が憎い親などいないし、子供の能力を少しでも伸ばしてあげられればと。毎日思っていることでしょう。子供はあっという間に成長します。まだ小学生だと思っているうちに中学生になり、まだ中学生と思っている間に高校生になっていくもの。小さい頃からきっちりと子供の話を聞いてやれる親になっていなければ、中学・高校になってからではもう手遅れになると思うのです。
小学校時代にどれだけ対話してやれるかが、一番のポイントではないかと思います。私は仕事人間ではなかったので、その分子供に時間を割いてやれたのが良かったと思っています。
失業していた時代、息子がスイミングスクールで泳ぐ様子を、他のお母さん達に混じって見ていたことがありました。終わって一緒に息子と帰る途中で、息子が「もうスイミングはやめたい!」と言い出したので、やめるのはいいけど、「他にやりたいことはないのか?」と聞くと、当時親子で将棋に熱中していたこともあり、「将棋倶楽部に行きたい!」という答えが返ってきました。
スイミングスクールから、「将棋倶楽部」を探すことになったのです。そして探した将棋倶楽部に息子を連れて行き、暫くの間じっとその様子を見ていたこともありました。奇遇にもそこで最初に対戦した相手の男の子が、その後大手前高校の理数科を受験し、惜しくも不合格になったが、後期試験で普通科へ入り直し、同じ京都大学理学部に入った生徒だったのは、運命の巡り合わせでした。
仕事面ではそんな状態で世間に背を向けて、裏街道を歩んでいましたが、その分子供に対しては時間を割くことができたので、世の猛烈サラリーマン達に比べると、結構子供とは遊んでやった方かもしれません。子供が小さいうちは、子供にとって遊んでくれる親がいいのでしょうが、大きくなるにつれて親は鬱陶しいだけの存在になりますから、遊んでくれる親ではなく、しっかり稼いで学費を出してくれる親が子供には理想的なのかもしれません。
失業で苦しんでいた時、死ななくてよかったと、今になって切実に思います。どんな状況に追い込まれても、決して自分に負けることのないように、強い精神力を持たなければいけません。子供に助けられたようなものです。明るい子供達の将来を、親の私が潰してはならない...という気持ちが「自殺」を思い止まらせたように思うのです。自分の人生には絶望していましたが、子供達の人生には希望があったから、私も生きていくことができたのかもしれません。

親が頼りないと、子供がしっかりしてくれるのか。

その後は家内もパート勤務で収入を得てくれるようになり、子供の教育費はかかりましたが、なんとか生活はできるようになりました。子供が授業料の高い「私立」にだけは行かないように、あれこれ思案しました。幸い息子も娘も公立の学校を選んでくれましたから、正直なところ、学費面では親孝行をしてくれたと思います。
親が頼りないと、逆に子供の方がしっかりしてくれるもので、親と子には持ちつ持たれつの関係があるのかもしれません。或る意味で私が猛烈仕事人間でなかったことが、逆に子供達にとっては良かったと言えます。
学校の事も勉強の事も遊びの事でも、私は結構子供にちょっかいを出していました。子供が小さい時は、休みの度に近くの緑地へ弁当を持って遊びに行き、野球やキャッチボールをしたり、サッカーをしたり、キックベースをしたり、仲の良い家族達とバーベキューをしたり、いろいろスキンシップがあった方だと思います。
息子が中学三年の冬は、受験に負けない体力をつけるために、朝早くから10キロ近いランニングを一緒にやったり、高校一年の冬は、大手前高校恒例の大阪城マラソンに備え、一緒に走って練習をしたり、結構つき合ってやったものです。走って一汗かいた後は、息子が投手、私が捕手になってキャッチボールをし、息子の球のスピードの速さに吃驚したものです。そんなに運動ができるタイプではありませんでしたが、こちらは年々体力が衰えていきますが、子供はまだまだ体力が上昇していく時期でしたから、互角か逆転されたのもこの時期だったのかもしれません。
緑地の中で息子といい汗をかいた後は、ふと失業時代、ここで死のうか...と考えていた記憶が甦り、思い切らなくてよかったと思ったものです。人間早まるのはよくありません。きっと何とかなるものだと信じたい。自分の身は自分だけのものじゃなく、家内や子供や自分の親に対して「生きて行く責任」があります。それを全うすることなく死ぬのは、罪以外の何物でもないのです。
失業時代にプレッシャーをほとんどかけなかった家内にも感謝したい。子は親の気持ちなど知る由もありませんが、あどけない無邪気な存在として元気に生きていてくれるだけで、親にとっては有り難いことなのです。年老いた親には心配をかけられないから、仕事は順調にいっていると、嘘をつき通すしかないし、家内も親にはずっと黙っていたようです。その間の「言うに言えぬ辛さ」を経験していたからこそ、家族みんなが健康で生きていられることの幸せや、仕事ができることの有り難さを噛みしめられるのです。
仕事も何もしない状態がいつまでも続くと、本当に頭がボケると当時は思ったものです。人間、頭を使わなくなると脳の中に隙間ができる...脳味噌が小さくなる...という話も満更嘘じゃないように思えます。苦しくても、必死に何かに取り組む姿勢を「持続していく」ことに価値があるのです。

幼児期に於ける親の子供への接し方。

幼児にものを教えるのは大変だと思いますが、息子の場合、家内は「我々の子だから頭が良い訳がない」と思い、かなりスパルタでいろいろ教え込んだようです。息子も泣きながらも必死に食らいついて教えを乞うていたようです。決して嫌がらず逃げなかったところは、やはり生まれ持っての性格というか、能力だったのではないかと思います。
娘なんか、嫌ならプイッとすぐに逃げていきましたから。私自身は小さい頃は親からまともに何かを教えて貰った記憶がありません。小学二年位の頃、唯一親爺の友人が、時計の読み方が分からなかった私に、分かりやすく時間をかけて教えてくれたことが今だに記憶に残っています。子供ながらに分かりやすく丁寧に教えてもらったことが、嬉しい想い出として焼き付いているのです。
「親の熱意」というものも、子供の教育には必要だと感じます。プレッシャーになるような接し方は確かに良くないでしょうが、子供の学びたいという気持ちに応えてやることが大切です。
また、小学六年の頃私が、宿題のプリントで分からない問題を兄に聞いていたところ、私の理解力のなさに腹を立てたのか、問題用紙を兄に破り捨てられたことがありました。それを担任の教師に泣きながら弁解した記憶があります。そういうことがあって以来、もう二度と兄に勉強に関して聞こうなどとは思わなかった苦い思い出があります。
どういう接し方で「ものを教える」かは大切な事で、子供の反応を見ながら、あたたかい目で接していくという基本が、その根底にないといけないのではないかと思います。
しかし後年、息子が振り返るには、「小さい頃お母さんに叩かれながら勉強させられたことが辛かった!」と言ってましたから、子供なりに苦しいことだったのかもしれません。それに耐えてきたからこそ、更に能力を伸ばすことができたとも言えますし、当時は将来の事などは考えずにやっていたことですから、よかったのか悪かったのかは一概に言えません。

今こそ求められる父親の権威について。

「渡る世間の裏話(97.3.15)」
という早坂茂三さんの著書の中に東京女子大教授の林道義氏との対談「今こそ求められる父親の権威」という章があり、子供に対する父親の影響の大きさについて語られていました。その中で、父親が果たすべき四つの役割とは、
一、家族を統合しまとめること。
二、理念を掲げ、家族の価値観を掲げ統合し、家族を引っ張っていくリーダーシップを持つこと。
三、文化を伝える礼儀作法や美意識、日本的繊細な感覚とかをしっかり子に伝えること。
四、社会のルールを教え、善悪の区別や社会規範をしっかり教えること。
この四つが大切であると語られていました。ある程度価値観を与えないと、子供は何もなくなってしまう。権威にも健全な権威があり、その人が高い人格を持っているとか実力を持っていたら、周りの人が皆自然に信頼して言うことを聞く...そういう権威が子供を育てる時には必要であると。
戦後民主主義の中で、権威という言葉を完全に否定してしまった。父親の押し付けというと言葉は悪いですが、メッセージというか、そういうものがないとバラバラになってしまう。昔の人の言葉に、「子の言うこと八、九は聞くな」とあります。父親が語ることが大事なのだと。

下らないテレビ番組を見ている子らに、はっきりと「くだらん!」と言えばいいのです。父親が何も言わないのはよくない。善悪の判断とか、社会の目を家庭の中に入れてくるのが父親の役目であり、子供は「飴と鞭で育てる」しかないのです。父性で鍛えなきゃいけないところに、へんに母性の優しさを持ち込んでしまうと「教育」には決してならない。正しい鍛え方は大切なことであり、父親が子供の反発を恐れすぎているようではいけないのだと。
考え方が古いとか新しいというのは関係ないことで、それを基準にしたら子供は全て新しいから正しいことになってしまい、そんなバカなことはありません。アクの強い父親であってもいい、子に感動を与えられる父親にならないと駄目だと。
父親が子供とつき合うというのが基本になり、つき合わなければ感動も与えられないし、交流もできないから。子供が能書き垂れてガタガタ言っても、一発ガツンとやれる親爺の存在が、今の様な時代にこそ必要であり、きちんとしたポリシーを持って、子供にメッセージを与えられるという父親こそ望ましいのであり、父親自身が立派な存在になって、「権威を持つぞ!」という覚悟が必要だ...というような内容でした。
正しく我が意を得たりという文章に出会った思いでした。私もそういう思いで家族に接してきたように思います。自分にはそういう父親がいなかったので、自分は子供に対して、立派な父親を演じようという気持ちが強かったのかもしれません。自分が得られなかった父親からの愛情を、子供には注いでやりたいという思いで生きて来たように思います。林道義氏に、自分が朧気ながら思っていたことをズバリ明確に指摘して頂いたようで、とても感動致しました。

親子の遺伝について。

私も中学一年〜高校二年の秋頃までは、結果は残せなかったですが、勉強に関しては精一杯それなりに努力して来たという自負があります。そういう一生懸命にやってきたという遺伝子が、娘にはあまり遺伝しなかったけれど、息子にはうまく受け継がれたような気がします。
私は学生時代に、学校行事には真面目に取り組んで来なかったのですが、そういう良くない所も息子には遺伝したようで、人の為に何か骨を折るとか、人と協調して場や会を盛り上げるというような事は、全くできない性格だったようです。悪いところまで遺伝するのが辛いですね。
タイトルにある、「鳶」と「鷹」の関係ですが、同じコインの裏表のような気がします。常に光が当たるのは「鷹」ですが、その裏にはいつも「鳶」が見え隠れして控えています。私は結局「鷹」にはなれませんでしたが、自分の息子を通して、なれなかった「鷹」の夢を、共になぞれたような気がします。
息子は脚光を浴びる「鷹」としての人生を歩んで来ましたが、勉強だけしていればいい訳じゃなく、人生経験を積んで、人との協調性を学び、人の痛みが分かり、人を思いやれる人間にならない限り、いろんな壁にぶち当たり、早晩挫折する日が来たことでしょう。そうならないように、親としていろんなアドバイスをしてきたつもりですが、やはり自分で苦労し失敗し、苦い経験をするまでは、本当の意味でそれらの事を理解できないと思っています。

ここぞという大事な時に結果を出せるか否かが、勝者と敗者を分ける。

人が何と言おうと、息子は要所要所で「結果を出してきた」のだから、やるべきことを期限までにちゃんとやって来たということです。帳尻を合わせるのが巧かったと言えるかもしれません。そういう大事な時に能力のピークを持っていき、集中できるというのは、やはり私などにはなかった、生まれ持っての才能なのかもしれません。
私は要領の悪い人間で、失敗ばかりして来たから、失敗から学んだ「勝つ為の法則」を、反面教師として、息子に教えようとしてきたのかもしれません。失敗ばかりして来た人間に、果たして息子の指導ができるのか? 指導はできないかもしれないが、助言はできる。「俺のように なりたいのかと いう説教」という自作の川柳を投句し、新聞に掲載されたことがありましたが、将にその思いで息子に接してきたように思います。
さすがに息子も、私を見ていて、「親爺のようにはなりたくないな!」と思っていたのだと思いますが、ならないためにも、親爺の云う助言に割と素直に従ってきたところがあります。受験を乗り越えるには、最後まで「気持ちの糸を切らない」ことが大切で、気持ちで負けたのでは勝てる訳がありません。常に自分を鼓舞して奮い立たせ、気持ちをずっと持続できた者が、最後に合格できるのだと思います。
高校受験で私学の滑り止めに、私は明星学園を勧めたのですが、本人は合格する自信がないと言って、友達が勧めた「大阪桐蔭一類」を受けて合格し、本命の大手前理数科も80人の募集に対し、293人が受け倍率が3.67でしたが、ギリギリ合格できました。
大学受験では滑り止めの私大は一切受けず、京大理学部前期過程一本で合格。受験の戦績は三戦三勝。憎たらしい程、狙った獲物は確実に仕留めるという性格でした。恥ずかしながら、私は高校受験でレベルの高くもない県立高校に落ち、大学受験でも落ち、宅浪したのちはノイローゼになって受験を断念したという、何とも三戦二敗一不戦敗という、典型的な敗者の道一筋に進んで来ました。自暴自棄になり、投げやりな人生だったので、そういう点では息子とは好対照です。
身近に親身になってアドバイスしてくれる存在がいないと、私は正道を歩めないタイプの人間だったと思います。ひとりで道を切り拓いていける判断力や能力はなかったのです。
その点息子は、回りがどうであれ、自分の道は自分の判断でしっかり地に足をつけて歩んで来たように思います。「鳶から鷹が生まれた」というか、「雀から隼が生まれた」というべきか? 親がバカでも、子は立派に育つものだという例が、世の父兄達の励ましになるのではないかと思います。
子の適性や能力を冷静に見極めて、正しい方向へ導いてやることが親の務めであり、子供に対してはそういう責任があります。子供の経験では分からないところを親が補ってやって、最も相応しい道を歩いて行けるように、背後からしっかり応援してやることが、本当の親と言えるのかもしれません。
私は親爺からはそれをして貰えませんでしたが、自分の子供にはそれをしてやれたのではないかと思います。息子にとって父親の存在がどれ程のものであったのか? 今となってはもう訊くことはできませんが、少なくとも、良き話し相手になってやれたと思っています。そういう父と子で、話のキャッチボールをする過
程で、息子も自分の進むべき道筋を明確にして行ったのではないかと思っています。

 

次へ⇒能ない鳶は能ある鷹をうめるかP57~P75 第二章前編

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