第一章 人生の落ちこぼれだった私の半生について 25〜56
息子のことを述べる前に、私自身のことについて、恥を忍んで書かなければいけないでしょう。
私は頭が悪かったので、小学五年の時から親に言われるまま近所の塾に通わされ、中学三年間、都合五年近く塾で学んできた訳ですが、小学校時代の塾は、75歳位の引退した元小学校の校長先生が自宅で教師をしていたような所だったので、生徒達もあまり真剣に学ぶ意志もなく、ほとんど遊び半分のようで、学力向上にはほとんど役に立ちませんでしたが、中学時代は所謂「進学塾」に通わされたことで、確かに「点を取る学力」はつきました。
しかし人間的な面での成長はなくなり、仲間達を「学力だけで見ようとする偏見」を養ったように思います。偏差値教育の悪弊に害された存在だったと言えます。学校の勉強ができさえすれば、点を取りさえすれば、後の人格的な要素はどうでもいい...人間性など糞喰らえ...という嫌味な「超ガリ勉」になってしまったのです。
小学校時代の成績は中の下位の凡庸な成績でしたが、中学時代は当時11クラス全部で510人中、25番以内に入っていました。確かに成績が上がり気分は良かったけれど、今から考えると単なる「点取り虫」の嫌な奴でしかなかったのです。中学二年の時、素行も成績も悪かった級友を、「役に立たない!」と言い放ってしまい、教師から親が厳しく指導されたことがありました。「勉強ができるできない」を、人間として「役に立つ役にたたない」と考える生徒だったのです。
それでも勉強だけは必死に取り組んでいたので、中学三年の一月の実力テストでは、初めて学年一位になりました。しかし私立高校の受験は全く考えていませんでした。
その当時兵庫県の伊丹学区では、各中学のトップが数える程、神戸の灘高校へ、数人が西宮の甲陽学院へ行くのが受験エリートでした。私が通ってた塾の塾長が、関西学院出身で関西学院高等部の英語教師でしたので、関西学院への受験を暗に仄めかされたが、私は受験する気など毛頭ありませんでした。校外模試で合格圏内だと分かっただけで充分だったのです。父親のいない母と兄の三人暮らしの母子家庭だったから、私立の学校に行くことなど夢にも思わなかったのです。
二歳上の兄が、伝統のある県立高校に通っていたこともあり、同じ県立高校への進学を希望していたのです。当時の授業料は確か、月二千円程度で年間でも二万四千円程度でした。
その県立高校自体はレベルの高い学校ではなかったのですが、出身中学の進学校区ではなかったので、学年で十人程度しか合格できないと云われていましたが、自分は合格できるものと信じて疑いませんでしたが...しかし不合格でした。当日の試験でミスしたのか? 内申点が悪かったのか? 恐らくは当落線上になって、中学時代にほとんど行事に参加していなかったことや、人間的に問題があることなどが引っ掛かり、落とされたのではないかと推測しています。
テストで点を取ることだけしか頭になく、運動クラブに入って体を鍛えることもせず、学校行事に積極的に参加して仲間と協力していくというような、人間らしいことも一切してこなかった罰が当たったのではないかと思っています。息子もそんな血を受け継いでいたかもしれません。
中学時代は、授業は一度も休みませんでしたが、ほとんどの行事はずる休みをして、出なかったのです。人格形成上、芳しくない生き方をしていたと今では思っています。その天罰が当たり、行きたい高校へ行けず、学区内の平凡な学力の生徒達が多く行く、中レベルの県立高校へ行かざるを得ず、高校時代は不貞腐れた面白くない三年間を過ごしました。
多分その高校へはトップに近い成績で入ったと思いますが、自分としてはとても情けなかった。中学時代の優秀でない仲間の大半が集まるその高校へ、自分も一緒に行くことになり、それ程成績がよくなかったと、回りから思われる恥ずかしさがあったのです。
自分としては中学時代「トップクラスにいた」ということだけが誇りだった。それがなければ他に何の取り柄もないつまらない人間だと思っていたからです。そのプライドを崩されたのです。
それでも高校時代は一応大学進学を目指し、高校二年の夏休み頃迄はそこそこ勉強していました。高校二年の夏休みには、京都の駿台予備校まで仲間二人と夏期講習に通っていたくらいですから。高校二年の九月にあった、高校で初めての「進研模試」では、学年でダントツのトップでした。その高校でランキング表に名前が掲載されたのは私ともう一人だけでしたから。
しかしその頃以降には、次第に勉強に対する熱意が薄れ、高校三年の時にはもう完全に「糸の切れた凧」状態になってしまいました。自分は一体何を勉強したいのか? 大学で何がしたいのか? 自分の人生をどう考えているのか? 全く先が見えない・読めない・誰にも相談できない...暗中模索状態に陥ってしまったのです。
学校の教師から、「お前は視野が狭い、もっと視野を広げなさい!」などと散々貶されたことで、性格的に腐ってしまったように思います。確かに自分でもそう思っていましたが、どうしようもなかった。そういう生き方をずっとしてきたのだから、今更視野を広げろと言われても、どうしたらいいか全く分からなかったのです。自分なりに本を読んだりしてみましたが、根本的な解決にはならなかった。
兄は当時東京の私立大学の文系学部に通っており、中学時代から既にかなり仲が悪かったから、兄弟間の会話はほとんどなかったし、母とも学校のことに関しては、会話らしい会話は全くなかった。私の方が完全に拒絶していたからで、今となっては申し訳なかったという気持ちで一杯ですが、その当時の自分はそういう生き方しか出来なかったのです。
親爺とは小学三年の時に生き別れて以来、一緒には暮らしていない状況でしたから、私に人生について教えてくれる父親的な存在が近くにはいなかったのです。中学時代は塾の校長が親爺代わりだったのですが、母は仕事の愚痴をぶつけることはあっても、私の進路に対しては、何一つ役に立つことをアドバイスしてくれるような存在ではなかったのです。生活して行くのがやっとで、それどころじゃなかったのです。母にすれば、早く私を大学生にして、息詰まる生活から解放されたかったのでしょうが、私の方がおかしくなってしまった訳です。
●大学受験の失敗〜宅浪〜ノイローゼ〜受験断念。
一度切れた凧は、もう二度と戻ってくることはありません。早く高校を卒業して、自分ひとりになってから、「もう一度初めから受験勉強をやり直そう!」という気持ちだけは当時ありました。
プライドがあったので、現役時には、家から自転車で通える大阪大学を受験しましたが、到底受かる筈もなく、仮に受かっていたとしても、大学ではきっと付いていけなかったと思います。
予備校に通うのはお金がかかるし、親に経済的な苦労をさせたくなかったから、自宅で浪人して再起を図ろうと考え、六カ月間は何とか勉強を続けて頑張ることができましたが、それ以降は徐々にノイローゼになってしまい、十月以降は勉強も進まず、かといって何かをして発散することもできず、親にも相談できず、孤独な毎日をただ無為に過ごすだけという、今で言う「引きこもり状態」ニートのような状態に陥ってしまったのです。
そして結局浪人したにも関わらず、制度ができて第二回目の「共通一次試験」も受けることなく、大学を受験することはありませんでした。敵前逃亡のような、負け犬的脱走兵だった訳です。
息子の受験に密着し、克明に追体験することによって、挫折した自分の受験期の「修復」を図りたかった...虚しく過ぎ去った自分の青春を、取り戻したかったのかもしれません。
学生時代の私は、今のように几帳面な性格ではなかったし、何事に対しても消極的で、人の事など考えられないような、協調性のない人間でした。私も大手前理数科生徒達のような「選ばれし者」に入りたかったという、負け犬故の強烈な劣等感があったのも確かです。勉強面ではそれなりに一生懸命頑張ってはいましたが、どこかピントがズレていて、どうでも良い時には凄く頑張って結果を出しても、肝腎な時にはやる気を失い、結果が残せなかったのです、真のエリートにはなれなかった田舎者でした。
●受験を乗り越えられなかった私と、乗り越えられた息子の違いは何か。
息子と私を対比させることで、明確にしてみたかった。息子を見る限り、それ程「凄い」という点はあまりあるとは思われません。そんなに必死に勉強していた訳でもなく、教養を深めるべく読書をして自分を磨いていた訳でもなく、腰が痛いらしく、いつも床に腹這いになっていて、勉強もやっているのかいないのか、傍目には分からない様子だったからです。
しかし結果をキッチリ出してきたのは何故なのか? いい加減なようで、肝腎な所でキッチリ結果を出す為には、どうでなければいけないのか? そこが知りたかったのです。
やたら時間をかければ勉強ができるようになる訳ではないし、かといって全くやらなければ急降下で成績は落ちていきます。コンスタントに継続していく「強い意志」のようなもの、少々成績が良くても悪くても決して調子に乗らず、落ち込まず、「コンスタントに長い目で取り組み続ける姿勢」が大切だと、息子を見ていて感じたものです。
そして徐々に蓄積した力を結集させていくラストスパート力と集中力。気持ちの糸を決して自分で切らない「強靱な意志」を最後の最後まで持ち続けた者が、合格というゴールを切れる。
途中で脱落する者は、どこかこの意志が弱いのだと思います。目的や目標がより明確であるほど、気持ちの糸が切れにくいとも言えます。やる気をなくすのは簡単なことですが、気持ちをずっと持ち続けることは大変な事なのです。
「才能とは、努力を継続できる力」と、将棋棋士羽生四冠の言葉がありますが、まさにその通りだと思います。どんなことでも粘り強くやり続けることで良い結果がうまれるのであり、どんなに正当な理由をつけても、途中で諦めたり投げ出したりした者は、敗者になってしまうのです。私は途中で投げ出した敗者であり、息子は最後までやり通した勝者とも言えます。
●劣等感〜優越感〜疎外感〜屈辱感と変遷した人生。
小学校六年までの私の心の中には「劣等感」が常にくっついておりました。飲んだくれで働かない親爺から逃げ出し、貧乏な母子家庭で育ったこともあり、二間しかない木造の陋屋に、母と兄と三人で隠れるように暮らしていたことで、成長するにつれ、「自宅に友達が呼べない」という淋しさがありました。貧乏暮らしを他人に覗かれて、変な憐れみを持たれたくなかったのです。
親爺の元から兄と逃げるように出て行って以来、逃亡者のような日陰者の悲哀が常に付きまといました。それでも中学時代に英語と数学を教えてくれる学習塾に通うようになってから、成績がよくなり、ちょっとした「優越感」を覚えるようになりました。
中学三年間でそこをやめて、高校からはひとりで「通信添削」をして勉強するようになり、高校二年の夏休みくらいまではその状態が続きましたが、それからは徐々に目標が霞んでき、人間としての「疎外感」に悩むようになり、大学受験に失敗し、宅浪した後ノイローゼになり、再受験も中途半端に断念して、試験のない専門学校へ行くより道がなかった頃から「屈辱感」を思い知るだけの虚しい人生だったように思います。
私は「負け犬」であることは否定しません。それなりに懸命に生きては来ましたが、世間的に言えば成功者ではありませんし、肝腎な時に結果を出せなかったのですから。
入学金と授業料さえ払い込めば誰でも無試験で入れるグラフィックデザインの専門学校へ入り、今までのプライドなど、ズタズタに吹っ飛んでしまいました。底辺から人生をやり直さないといけない現実に身体が震えました。
本来進むべき道を大きく外れてしまった情けなさを、生涯背負っていかなければならない。失った時間はもう二度とは戻らない。人こそ殺してはいないが、「刑務所から娑婆に戻って人生をやり直すようなものだ」と自嘲気味に思ったものです。
それ故、結婚して息子ができて、その息子が利口だと分かった時は、親として期待もしたし、自分が果たせなかった夢を賭けてみたいという気持ちも、どこかにあったのかもしれません。
そして息子は私が歩みたかった道を、正々堂々と歩き出していたのです。私の役割は、息子の踏み台に徹してアシストしてやること。自分はもう人生の主役ではないのだから、主役の座を息子に譲り、老脇役に徹するしかないと思いました。
自分の人生は自らの愚かさで踏み外してしまったけれど、我が子の人生は正しく導いてやることで、名誉挽回・汚名返上しなければならないと思ったのかもしれません。
●人間にとって「やる気」を維持していくことが最も大切かもしれない。
片親であり、友達を呼べるような家に住んでいなかったという強烈な劣等感があり、勉強をすることで、それを跳ね返そうと藻掻いていましたが、その先にある自分の「将来の目標や目的」というものが全く見えなかった。何かになろうという思いが全く欠落していたのです。
父親という確固たる存在がいなかったことが、私にとって欠陥人間への道を助長させたのかもしれません。私の兄は、それでもまともに大学へ行き卒業をしました。兄弟ながらタイプが全く違っていたから。しかし私はそれができなかった。「やる気」という一番大切なものを失ってしまっていたからだと思います。
中学時代そこそこ勉強ができたというプライドと、高校ではトップだったというプライドが邪魔をし、やる気をなくして全く勉強をしなかったにも関わらず、難関大学を受けて、格好だけはつけようとした訳です。学科がどうであれ、入れさえすればそれで格好がつくと、卑怯にも考えていました。実際定員割れを起こした学科だったにも関わらず、結局不合格だったのは、箸にも棒にも引っかからないようなレベルだったからだと思います。新聞で定員割れを知った時は「合格できた!」と内心喜びましたが、他の学科志望で第二希望の優秀な生徒が回り合格したように思います。
現実はやはりそうじゃないといけません。やる気のない者を合格などさせてはいけないのです。人間にとって「やる気」を維持していくことは大変なことなのだと思います。
親としては子供にやる気をなくさせないように導いてやることが、教育上大事なことだと痛感しています。子供が調子に乗っていれば貶し、落ち込んでいれば励ますという単純なことですが、そういう人間臭いコミュニケーションを密に取っていくことが必要だと思うのです。
親が一生懸命やっていたら、その思いは自然と子供に伝わると信じたいけれど、伝えられない部分は確かにあり、以心伝心というような簡単な訳にはいかないのです。はっきりと言うべきことを言わないと、人生経験の少ない子供に、世の中の道理はピンとこないものです。
●淋しい私の少年時代について 。
親爺と母の仲が非常に悪かったので、家庭環境としては決して良かったとは言えません。私は望まれてこの世に生を受けた存在ではなかったと、後で聞かされました。怠け者でまともに働かなかった親爺に愛想を尽かした母が、内職しながら私と兄を育ててくれたようなものだったのです。
私が幼稚園位の頃に親爺がアルコール依存症で入院し、そこの院長から母が言われた事は、「こんな男とは早く別れた方がいい」でした。だから母も病気が治ったら別れる積もりでいたようです。私が小学三年生位の頃、病院から退院してきて、帰って来た翌日に母が家出。それから数ヶ月の間、母のいない、親爺と兄との淋しい三人だけの生活が始まった訳です。
人に対しても世の中に対しても、その頃から、何か引け目があったように思います。今でも覚えている事に、或る夏の夜、八時位になっても兄も親爺も帰宅せず、灯りのない真っ暗なアパートに一人帰るのが恐くて嫌だった私は、近所の家の物陰に座って、親爺や兄が帰って来るのをずっと涙を浮かべながら待っていました。親爺が帰って来たのが分かると涙を拭いて、今帰ってきたような振りをして親爺の後ろを追いかける...というような日が多かったのです。
昼間は友達とワイワイ楽しく遊んでいても、夜になるとそんな状態が多かったのです。暖かい家庭とは程遠い少年時代でした。何ヶ月も母のいない暮らしが続き、親爺ももう限界だったのでしょう。「食べるものがない!」と勝ち気な兄と親爺が口論になり、ついに「出て行け!」ということになり、兄がそそくさと出ていく用意をしていた時、私も親爺に付くより兄に付いて行こうと咄嗟に判断し、ランドセルを背負って兄と一緒に夜出て行きました。兄は数km離れた所に母が隠れて住んでいることを当時知っていたらしく、母のアパートに向かったのでした。
それ以来母と兄と三人の暮らしが始まり、もう二度と親爺とは暮らすことは無かったのです。母も女手ひとつで我々を育てるのは大変だったと思います。
兄は割と楽天的で勉強もできたので、大学へ行き順調な人生を歩みましたが、私は悲観的で勉強もできなかったので、無理矢理中学に入る前に学習塾に入れられ、そこでスパルタ式の教育を受けさせられた訳です。父親の存在がなかっただけに、塾長が父のような存在となり、塾長の言う事が全て正しいと思いこみ、ガリ勉への道をひた走ったのです。
中学三年間そこそこ頑張ったおかげで、結構勉強はできる方だったのですが、考え方がとても偏った「視野の狭い人間」になってしまったのは確かです。中学三年間は、苦しいながらも充実していましたが、当然受かると思っていた兄の県立高校に落ち、良くもなく悪くもない凡庸な生徒が多い学区の県立高校へ行かざるを得ず、腐ってしまったのです。
自分にプライドがあっただけに、落ちたショックは相当なもので、行った高校に最後まで馴染めず、つまらない青春時代を過ごした訳です。
中学時代に必死にやった反動で、高校時代はあまり勉強に身が入らなかった「燃え尽き症候群」のようなもので、方向性を見失った訳です。それまでは塾長の言うことだけを信じて突っ走ってきたけど、これからは自分の判断で生きていくしかないと。
高二の秋頃までは、中学時代の蓄積でなんとかなりましたが、それ以降は完全に糸が切れた凧状態になって、まともに学校に行かないようになったのです。
母に心配をかけぬ為、一応家は出るけど、家と学校の間にあるスポーツセンターで時間を潰す日々が続きました。真剣に生きていなかったから、今想い出そうにもあまり多くの事が思い出せないくらいです。暖かく見守ってくれる人がいるだけでも駄目。適切なアドバイスをして、じっくり話を聞いて先導してくれる存在がいないと、私は駄目だったのです。
母は生活に忙しく、当時それどころじゃなかった。私はそんな虚しい高校生活を送ったので、自分の子供には、何としても充実した高校生活を送ってほしかったのです。
勉強でもいいし、クラブでもいいし、何か打ち込めるものを見つけてくれれば、応援するつもりでした。しかし息子にとっては勉強しかなかったのです。運動ができた訳でもなく、人づき合いが良かった訳でもなく、自分がやりたい勉強をするために「大学に入ることが目標」になったのです。
●六カ月もの失業時代(平成九年十月〜翌三月末)を経験して。
私が今の会社に再就職した時、息子は小学四年でした。それまで六ヶ月間失業状態が続いていて、このまま就職できないようなら、自分の人生も終わりだな...と考えるようになっていました。来てくれと言われる会社には行きたくないし、どうしても入りたいと思う会社からは断られる...という状態が六カ月も続きました。
自分が一日でも多く生きていればそれだけ、貯金を切り崩し、生活費を無駄にしていることになるのか...という自責の念に苛まれるし、朝家を出て職を探しに行っても、毎日収穫がなく、かと言って家にいれば子供が不信がるから帰るに帰れず、行く当てもなく公園でブラブラするという情けない日々がずっと続いていたのです。
暑い時は蚊がまとわりついてくるからじっとしていられないし、冬は寒くて屋外にじっとしていると凍えてきて益々自分の境遇が侘びしくなる。二百円で一日中珈琲が飲める場所を何カ所かハシゴしながら、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、自分のようなクズは、生きていく資格などないと、頭の中で堂々巡りな事ばかり考えていたものです。
時間がない時には、あれがしたいとかこれがしたいとか、積極的に考えられることも、いざ時間がふんだんにある時には何もできないものです。意欲が全く湧いてこないのです。当時息子が小学四年、娘が小学一年で、家内はまだパート勤務をしておらず、自己都合退職なので、失業手当が貰えるのは四ヶ月以上も先でしたから、当面の生活費は貯金を切り崩していくしかなかったのです。
何もせず無駄な日々を過ごす抵抗もあり、当時ハローワークが募集していた「第二期 パソコンマネージャー科」で、一カ月近くウインドウズやマックの講習を受けた時期もありましたが、心の中では、こんなことしている場合か...という葛藤が常にありました。勉強している合間合間に面接に行き、職が決まればすぐにでも講習を中止しようという思いでしたが、それも叶わず、98年の三月はまさしく最悪の精神状態で過ぎて行ったのです。
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